地区の南部に和邇下神社と言う神社があります。この神社はもう1座あり、高瀬川に沿い東へ2キロ程の山裾にある神社を上社、下流の神社を下社と言います。江戸時代に書かれた書物の大和志(享保21年関祖衡編)によると「和爾下神社二座。一座ハ、櫟本村ニ在リ。曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ、横田村ニ在リ。曰ク下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。」とあります。また東大寺要録には、神護景雲3年(西暦769年) 東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の流路を今日の参道に沿った筋に移し、道も新しく、まっすぐに造られた。神社の森を治道の杜といい神社を治道宮といった。と言う旨の記述があるそうです。約1200年前に整備された川が、令和の今日に至って尚、地域の田畑を潤す主要な水源となっています。
治道では、水稲を中心としつつも戦後には、トマトの栽培が盛んに行われており、治道トマトのブランドで産地化がなされました。昭和の後半に至ると、重量のあるトマト栽培は、苺栽培へと変遷していきます。近年まで、耕作地の制約が大きかった影響により、トマトやイチゴに代表される園芸作物が中心となっています。
福田農園のある集落は柳生と言います。柳生は柳生でも、剣術で知られる柳生とは違います。平安時代の初期の興福寺の文書に拠れば、楊生荘興福寺雑役免荘園 延久2年(西暦1070年)雑役免帳に「楊生庄五町 春日社御幣免田也」と書かれてる荘田はすべて春日大社の御幣免田であるとされ、場所は添上郡京南6条2里及び7条2里付近とされており、その当時より楊生の地名が見て取れます。後世には、戦国武将の筒井順慶を支える三家老と称された森氏が主君の自刃の後、帰農に際して移り住んだ地であると言います。