福田農園
古より青垣山と詠われる山々に四方を囲まれた大和盆地にて、
代々続く、お米農家です。
挑戦 挑め果敢に!  誠実 貫け誠を!
主要コンテンツ
MAIN CONTENTS
  • のどかな風景
     金魚で有名な大和郡山市。大和の中心であった郡山城にも近く、隣接する平和地区と並び治道は大和郡山市の農業地帯を形成しています。
  • 注目のコンテンツ1
     神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れる水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流 するよう河川の造り替えをし道路を改修した。この森を治道の杜と言い神社を治道宮と言った。とあります。
  • 注目のコンテンツ1
     治道地区では、お米の他に治道トマトや苺の栽培が今日においても盛んに行われています。
  •  柳生流の剣術で有名な柳生の名ですがそれとは別です。その柳生を大柳生言うのに対して、元柳生と言いいます。
治道地区
  • 治道


     嘗て、大和の国の中心であった郡山城を戴く大和郡山市。全国一の生産量である金魚の街として知っている方もいるかとは思いますが、市の東部には、農村地域が残っています。北側の平和地区と共に農業地域を形成しています。大部分を山林が占める奈良県の希少な平地は近年、市街化が進んでいます。大和郡山市においても例外ではありませんが、今日もなお、のどかな風景が広がります。また、一帯は古来より交通の要衝であり、今日でも南北の国道24号線や、東西の国道25号線が走っており、若干の位置こそ変化はありますが、嘗て、平城の都が置かれ、天皇がこの地に御座しました万葉の時代の姿を今日に見て取ることが出来ます。 
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  • 治道の由来


     地区の南部に和邇下神社と言う神社があります。この神社はもう1座あり、高瀬川に沿い東へ2キロ程の山裾にある神社を上社、下流の神社を下社と言います。江戸時代に書かれた書物の大和志(享保21年関祖衡編)によると「和爾下神社二座。一座ハ、櫟本村ニ在リ。曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ、横田村ニ在リ。曰ク下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。」とあります。また東大寺要録には、神護景雲3年(西暦769年) 東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の流路を今日の参道に沿った筋に移し、道も新しく、まっすぐに造られた。神社の森を治道の杜といい神社を治道宮といった。と言う旨の記述があるそうです。約1200年前に整備された川が、令和の今日に至って尚、地域の田畑を潤す主要な水源となっています。

  • 治道の農業


     治道では、水稲を中心としつつも戦後には、トマトの栽培が盛んに行われており、治道トマトのブランドで産地化がなされました。昭和の後半に至ると、重量のあるトマト栽培は、苺栽培へと変遷していきます。近年まで、耕作地の制約が大きかった影響により、トマトやイチゴに代表される園芸作物が中心となっています。

     
  • 柳生の地


     福田農園のある集落は柳生と言います。柳生は柳生でも、剣術で知られる柳生とは違います。平安時代の初期の興福寺の文書に拠れば、楊生荘興福寺雑役免荘園 延久2年(西暦1070年)雑役免帳に「楊生庄五町 春日社御幣免田也」と書かれてる荘田はすべて春日大社の御幣免田であるとされ、場所は添上郡京南6条2里及び7条2里付近とされており、その当時より楊生の地名が見て取れます。後世には、戦国武将の筒井順慶を支える三家老と称された森氏が主君の自刃の後、帰農に際して移り住んだ地であると言います。 

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  • 福田農園
  • 奈良県大和郡山市横田町
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